reichasm’s blog

なで肩からずり落ちるトート

やさしいの移り変わり

「大切な人たちが痛い目を見て欲しくない」

いつしかこれが人生の指針となっていた。外界から、得体の知れない何かが押し寄せてくる感覚が頭にこびりついていて、これが前提にあったからだ。特に何か大きな事件があったわけではない。今思えば、無知と極端さが変に合わさった結果だと思っている。あわせて、その大切な人たちは人間性が素晴らしく、完全無欠で、正しいと思っていた(こちらにも極端さが効いているし、今となってはそんな期待をして重荷を背負わせてしまい申し訳なく思っている)。

自分はそういった不完全な外界からは一線引いて、不純物なものに触れず、大切な人たちにやさしくあろうと思っていた。無理もしていたと思うが、自己犠牲に満足すら感じていた。ただ、一向に状況は良くならない。それもそのはず、いくら絆創膏を貼っても傷つく原因を取り除かなければ、傷は増えるばかりだ。なんとなく違う気がした。

次に外界から大切な人たちを遠ざければいいと考えるようになった。そうすれば傷つくことなんてないじゃないかと思った。何が必要かと考えた時、シンプルにお金だと思った。でもお金を稼ぐことはとても難しかったし、人としてどうかと思うきっかけがあり断念した。

そのあとは大切な人が傷ついてしまった時、寄り添える人間でありたいと思うようになった。寄り添うこと自体はできたが、それだけでいいのかと思った。何度か途方もない無力感にかられた。

そんな中、やさしいと思える大人達と出会った。好きな音楽が考え方の中心になっていた自分にとって、初めての会話ができる尊敬できる大人達だった。本当に色んなことを教えてもらったと思う。知識や知見、考え方など。外界に触れながらもやさしくあれる人たちがいることにこれまでの自分の価値観がひっくり返えされた。このしなやかさ、懐の深さに心底憧れた。違いはなんだろうと考えた。一つ言えるのは強さだと思った。自分が憧れたこの大人達も他の人同様、色んなことを知っている。その中で自分の意志を持って、外界とどう折り合いをつけるか、バランスを取るかを考えているのだと思った。と、同時に自分には知識や経験、強さが圧倒的に足りないと思った。だから何度も何度もうまくいかないのだと思った。もっと外界に触れようと思った。本だけじゃなくて、ネットだけじゃなくて、現地に行って会話することも大事だと思った。また人間関係についても考え方が変わった。その大人たちはあらゆるものを長期に渡って見据えていた。人間関係も続くことに重きを置いていたように思う。それを聞いてなんとなく気が楽になった。この先、何年何十年と接するであろう大切な人たちとの関係において、本人たちの波とか関係性の波とか色々あれど、全部乗り越えられるような気がした。未完成のまま続くことに価値があると思えた。人と人は本質的には分かり合えないとは思っているけど、想い合えるのだと思った。それには経験からくる想像力が大事だ。

最近、自分の経験や知識からの意見が少しずつできるようになってきた。これがもし人の助けになっているのだとしたらとても幸せなことだ。こういう瞬間を増やすためにも、手近なことはチャレンジしていきたいというのが今の心境だ(明日には違うことを言っているかも知れない)。

ちょっと大きいことを言うと、中間業者をさっ引いたり、販管費を抑えられるスモールビジネスにはとても興味がある。

今思う「やさしい」は人が傷ついた時、寄り添って、その傷が癒えたら一緒に考えて、また進んでいこうと思ってもらえるよう手助けができる人になるということ。そのために日々、色んなことを知ったり、経験したりして考えの幅を増やしていきたい。

 

約8年分の振り返りをここに。