reichasm’s blog

なで肩からずり落ちるトート

おはようございます

27歳。

母親からのお祝いに対して「俺は楽しいよ」とメッセージを返せた朝。心の底から言えた。

 

夜通し誕生日を祝ってくれる友達がいます。

腹がよじれるほど笑うとはこのことか、というくらい面白い瞬間があります。

 

やりたいこと、

食べたいもの、

知りたいこと、

欲しいもの、

行きたいところ、

たくさんあります。

 

楽しい〜。やめらんね〜。

 

“高性能のヘッドホンなんで世界の音も聞こえません”

UNISON SQUARE GARDENセンチメンタルピリオド」(2008年)

 

“耳を塞いだあの日から4000日くらい歩いてて
ふと立ち止まり 振り返れば 随分 遠く 遠くまで来たみたい
今は ちゃんと世界の音もちょっとは聞こえてるよ 聞こえてるけど 時々は聞いていないフリ”

UNISON SQUARE GARDEN「プログラムcontinued」(2015年)

 

“耳を塞いだあの日から5000日ちょっとくらい歩いてて ふと立ち止まり 振り返れば 随分 遠く 遠くまで来たみたい
今はちゃんと世界の音もちょっとは聞こえてるよ 聞こえてるけど 大事なものはもっとある”

UNISON SQUARE GARDEN「プログラムcontinued (15th style)」(2019年)

https://youtu.be/e9mkPCO1rxk

 

変遷が現れてるこの繊細な歌詞がその瞬間の自分と向き合って足跡を残すことの大切さを教えてくれる。

なるべく純粋でありたい。心地よく生きたい。最近は世の中的にはどうでもいい事かもしれないけど、自分にとってはとても大事と自信を持って言えることが増えてきた。やったね。

センスとは「自分と向き合った答えとインプットしたものをすり合わせて、選び、バランスを取りながら形にしていくこと」だと思う。

ダサいときは何かが足りなかったり、過剰だったりしている。自分と向き合うことが足りなければ、本来の魅力が発揮されずもったいないし、インプットが少なすぎると視野が狭くなるし、バランスが悪いといやらしい物ができあがる。(金ピカの外車なんかはやっぱりダサい。)最上級なんて言葉、本当は何にも表してないんだよねきっと。全ては自分にとって足りてるかどうかだよね。

メンタルが強いだの弱いだの

よー分からん。

人材業界にいると、その場その瞬間で人を判断しなければならないので、よく聞く言葉だ。

生育環境やらの外的要因で人格が形成されて、その結果が今である以上、自分自身がうつ病になってないのは、偶然としか言えないはずだ。

なのに、やけに個人に責任を求めるなあという印象がある。

少なくとも他人に対して使っていい言葉じゃないだろ。

細かいことに気づいてしまう性質から、ストレスを溜めやすくなってしまい、結果うつ病みたいな事象って、メンタル弱いって言えるのか?言えねえだろ。

環境が変われば、発揮される性質も違うはずだ。自分の性質を見極めて、自分に合った環境で生きていける人が増えてくといいな。

 

心の声に従って生きている人とたくさん接したいな。

信じる

「信じる」ってなんだっけ?と、ふと思った。

それは「その人に委ねられる」とか「その人と接するとき油断してもいいと思える」とかではないか、と考えた。つまり状態のことだ。

 

買いでは物の価値を、そして店員さんを「信じて」買っている。

物を買う上での判断材料は原価だったり、形だったり、歴史だったり、希少性だったり色々ある。が、自分が優先したいのはやっぱり想いだなと思う。根底にこんな想いがあって、こんな意図があって作ったという事実に触れられると嬉しいし、なによりその想いを土台に不純なく作られている物は素敵だ。

それは物だけじゃなくて、サービスなどあらゆるものに対しても言える。

(いつの日か、売れるからやってるなんてつまんねーよって自分の口で言えるようになりたい)

 

自分は誰か特定の人と接する時、どんな不都合があっても許せると思えなければ、物事を進めない。なので、最悪どこまで悪くなるかを想像して考える。(デメリットを考える時間がもったいなければ、即刻、身を投じるけど)例えば、何か不都合があってもその人に対して直接いちゃもんつけないし、遺恨も絶対に残さないようにできるか?と自分に問いかけてる。そうすると、あとあと何かが起こっても思っていたのと違う…とか考えなくなるので、精神的にとてもいい。信じた結果、納得できるかが問題なので、初めから納得できるようにしとけばいい。

 

それの積み重ねなのか、最近は自分が納得できること、できないことがどんどん明確になってきたり、何を許せて何を許せないのか分かるようになってきたので、すごく楽になった。自分という存在を動かしやすい。(ありがたやー。)ただ、その場その場で判断しているので、色んなことをあんまり覚えてないことが増えてしまった。(それでええんかー。)

 

まあいいよ、仕方ないのでこの先の人生の準備を。

やさしいの移り変わり

「大切な人たちが痛い目を見て欲しくない」

いつしかこれが人生の指針となっていた。外界から、得体の知れない何かが押し寄せてくる感覚が頭にこびりついていて、これが前提にあったからだ。特に何か大きな事件があったわけではない。今思えば、無知と極端さが変に合わさった結果だと思っている。あわせて、その大切な人たちは人間性が素晴らしく、完全無欠で、正しいと思っていた(こちらにも極端さが効いているし、今となってはそんな期待をして重荷を背負わせてしまい申し訳なく思っている)。

自分はそういった不完全な外界からは一線引いて、不純物なものに触れず、大切な人たちにやさしくあろうと思っていた。無理もしていたと思うが、自己犠牲に満足すら感じていた。ただ、一向に状況は良くならない。それもそのはず、いくら絆創膏を貼っても傷つく原因を取り除かなければ、傷は増えるばかりだ。なんとなく違う気がした。

次に外界から大切な人たちを遠ざければいいと考えるようになった。そうすれば傷つくことなんてないじゃないかと思った。何が必要かと考えた時、シンプルにお金だと思った。でもお金を稼ぐことはとても難しかったし、人としてどうかと思うきっかけがあり断念した。

そのあとは大切な人が傷ついてしまった時、寄り添える人間でありたいと思うようになった。寄り添うこと自体はできたが、それだけでいいのかと思った。何度か途方もない無力感にかられた。

そんな中、やさしいと思える大人達と出会った。好きな音楽が考え方の中心になっていた自分にとって、初めての会話ができる尊敬できる大人達だった。本当に色んなことを教えてもらったと思う。知識や知見、考え方など。外界に触れながらもやさしくあれる人たちがいることにこれまでの自分の価値観がひっくり返えされた。このしなやかさ、懐の深さに心底憧れた。違いはなんだろうと考えた。一つ言えるのは強さだと思った。自分が憧れたこの大人達も他の人同様、色んなことを知っている。その中で自分の意志を持って、外界とどう折り合いをつけるか、バランスを取るかを考えているのだと思った。と、同時に自分には知識や経験、強さが圧倒的に足りないと思った。だから何度も何度もうまくいかないのだと思った。もっと外界に触れようと思った。本だけじゃなくて、ネットだけじゃなくて、現地に行って会話することも大事だと思った。また人間関係についても考え方が変わった。その大人たちはあらゆるものを長期に渡って見据えていた。人間関係も続くことに重きを置いていたように思う。それを聞いてなんとなく気が楽になった。この先、何年何十年と接するであろう大切な人たちとの関係において、本人たちの波とか関係性の波とか色々あれど、全部乗り越えられるような気がした。未完成のまま続くことに価値があると思えた。人と人は本質的には分かり合えないとは思っているけど、想い合えるのだと思った。それには経験からくる想像力が大事だ。

最近、自分の経験や知識からの意見が少しずつできるようになってきた。これがもし人の助けになっているのだとしたらとても幸せなことだ。こういう瞬間を増やすためにも、手近なことはチャレンジしていきたいというのが今の心境だ(明日には違うことを言っているかも知れない)。

ちょっと大きいことを言うと、中間業者をさっ引いたり、販管費を抑えられるスモールビジネスにはとても興味がある。

今思う「やさしい」は人が傷ついた時、寄り添って、その傷が癒えたら一緒に考えて、また進んでいこうと思ってもらえるよう手助けができる人になるということ。そのために日々、色んなことを知ったり、経験したりして考えの幅を増やしていきたい。

 

約8年分の振り返りをここに。

この先のこと

自分にはスケジュールを立てるという概念があまりない。約束をしない/守れないという話ではなく、長期的なスケジュールの事だ。

仕事も目についたものを発作的にしている部分が多い。(こちらも発作的に書いてる)

まあ、今はあんまり困ってないんだけど。

会社でこの仕事こう進めときますねと報告すると、上司の上司の上司が決まって「いつまでに?」と聞いてくるが、その発作とやらがいつ起こるか自分も分からないので、「桜が咲いて散る頃までには…」とか言ってごまかしてしまう。

ただ、これしてると人からの理解を得ながら物事を進めていく事が難しいような気がしている。それでも良かったのだが、理解をしてもらう努力をせず突飛キャラとして振る舞って、あまり考えてないような素振りをしながらヘラヘラしてその場をやり過ごせる人としか接することができない。それはどうかと思った。そして、それなりの努力をする前に、「どうせ理解されない…」とウジウジするのはダサいと思った。正々堂々、ウジウジしたいので、訓練も兼ねてこの先の身の振り方の予定を立ててみようと思います。

 

経済と収支と仕事と趣味です。

これは主語が大きいあくまで予想の話であり、頭の整理も兼ねている。自分が普段見ているものから考えた仮説を踏まえて成り立たせているので、前提が変わればその都度、軌道修正する。

 

-経済-

おそらく経済不況はこんなものではないと思っている。指数的なことは分からんが、感覚的に一度悪くなってしまったものが、良い方に向かうためにはそれなりの理由と時間が必要だと思う。

①コロナがいつ落ち着くか分からない

②コロナがどう落ち着いていくのか分からない

③コロナが落ち着いた後どうなるか分からない

悪条件をあげればキリがない。こんな状況下では良い方にすんなり向かうことはないだろう。

と、なると長期戦を覚悟しなければならないことになる。それに加えて、財源の話で、国にも会社にも言えることだが、おそらく今は貯金を切り崩している状況だろう。国は経済を成り立たせるために、会社は経営を成り立たせるために。この貯金というのは単にお金だけの話ではないと思っている。例えば、ビジネスにおいてのお客さんとの関係性だったり、上司部下の関係性だったりが当てはまる。今まで貸し借りして積み上げてきた信頼関係貯金を切り崩して成り立たせてる状況が散見される。

何が言いたいかというと、これからその反動が来るのではないか、という事だ。切り崩しているものは取り戻さなければならない。税金が上がったりするのか、ボーナスが減らされたりするのか分からないが何かしらのより戻しが来る気がする。そうなると考えるべきは収支についてだ。

 

-自身の収支-

収入

①給料

②投資の利益

支出

①固定費(家のお金、光熱費、ネットワーク費用、食費、光熱費)

変動費(衣類購入費、交際費)

本来であれば、まず支出を減らすべきなのだが、固定費は最低限にしているし、変動費の方はなくなってしまうと、人生とは…という悩みに陥るので、触らない。

なので、収入の方を考えます。今からすぐに収入を上げることは難しいので、投資先について考える。現状、銀行に預けっぱなしになっているお金たちがいる。このまま行くと、何も利子がつかないまま、寝ていることになるし、給料を貯め続けても何も変わらないので、ここをなんとかする。既に、楽天カード楽天証券開設までは済んでいるので、あとは何で積み立てるかというところだが、とりあえず2つ方法を模索中(①iDeCo ②積立NISA)。詳しくは書がないが、税制上の優遇措置があったりする。ここで月5万前後投資に回します。そしてこの5万の出どころだが、株やらなんやらで5%くらい出せるようになればベストだな。ただ、性格上こまめに運用するのができるのか分からん…とりあえず勉強してく。

まとめると

iDeCo

②積立NISA

(③資産運用)

という優先度でやる。

(ただ、iDeCoは積み立てたものを60歳からしか引き出せないというデメリットもあるので迷い中)

 

-仕事-

これはさまざまな要素が絡まり合う。経済の動向、業界の動向、会社の動向、職種のこと、周囲の動向、自分の意思。ここは正直全てを把握しきれない。なので、分かることだけを考える。現状「自動車業界の自動車部品会社の事務職で期待されてるレベルにはこなせている」不満は今のところない。ただ、今後読めない部分が多い。自動車業界が…うんぬんの話もあるが、これに関しては考えないようにする。手を打てることとしたら、自分の年齢を含めて今後動けるようにすること。そのためには会社への依存度を下げる。方法は①資格をとる②別収入をつくる。

まずは①資格だが、宅建士かなと思っている。家柄、不動産家系なので、何かとモチベーションが保ちやすいし、実際に物を扱うということに興味がある。戸建ての建て売りができる。一軒家を企画して売ってみたい。エイジングして、機能的に現代向けな家って作れるのかな。②別収入だが、どうしようかなという感じ。なんとなく今年じゃない気がしているが、どうしようもなくなったらなんかする。今年は投資の年にしようと思う。何をどこに投資するかを考え抜く年にする。時代にあった生き方をしなければね。我慢我慢。

 

-趣味-

今年も服をたくさん買えるといいな。今は服を入り口に素材にとても興味がある。人を中心において、素材がどういうメリット・デメリットがあって作られたかを知った上で物を買いたい。素材と織り方でどういう効能が出るか知りたい。原理原則に従ったものに囲まれたい。機能や扱いやすさや値段とのバランスを見定めて納得のいく買い物をしたい。

あと、投網投げれるようになりたい。おいしい鮎を大量に獲る。

 

とにかく舐めんなって言いたい。自分のわかる範囲だけの尺度しか持ち合わせず判断する人にかましていきたい。たまたま目に入ったものだけが全てなのかよ。なんとなくヘラヘラすんの飽きた。自分でも足使って知っていく努力をしてくれよ。でもまとめて幸せにしてやりたいという気持ち。

 

スローガンは「適材適所とコストバランス」で、人生を進めていく。

以上。

 

 

 

 

要であり急

2020年の振り返りです。

今年のテーマはもう「コロナ」でしょう。

こんなにも世界中が混乱してる状況を経験したのは生まれて初めてだ。

世界がどれだけ停滞しようが、時間は過ぎていく。2020年が終わります。

 

2020年は自分自身が落ち着いた年だったように思える。漠然と抱えていた将来に対する不安や心配がなくなった。不安や心配は自分にとっては原動力で、これを燃やして進んでいた時期もある。というか、だいたいそんな感じだった。だから、不安や心配がなくなることは、丸腰になることに近い。別に何か結果が出たわけではない。でもそんな武器ともいえる、不安や心配たちがなくなっていることに気づいた。とはいえ、この先をあきらめているわけじゃない。

 

自信がついたということにしている。

なぜそうなったかというと、いわゆる「このご時世」というのが始まりだ。感染拡大→自粛要請→経済の鈍化→産業への打撃というのが各所で見られた。日本中、いや世界中が大混乱している。とても苦しい方々も多いだろう。そんな中、声高に叫ばれた「不要不急」という言葉。必要でないもの、急ぎではないもの。今、この判断は個人に委ねられている。じゃあ自分にとっての必要なものって?急を要するものって?これにとことん向き合わされたと思う。

仲良くしてくれる人、服、おいしいご飯、音楽、お笑い、ラジオ、アニメ

これらに触れてる時は本当に幸せだと思った。

そして自分にとって必要だと思っているものは残り続けてくれた。(早くライブに行ったり、旅行に行ったりの日常は帰ってきて欲しいです)

人から必要とされるものは、どんな時でも求められるということが何よりも心強かった。それが同時に自分の自信へと繋がった。当たり前のことだが、必要とされるものは残るのだ。その事実にとても救われた。そして、いたるところで誰かにとっての必要とされるものやサービスたちで溢れている。

だったら、必要とされるように自分も力を注げばいいというシンプルな結論にたどり着いた。

その中で自分が納得のいくものを追い求めたい。来年はもう少し自分を通していきたいと思ってる。

 

まだ、色々なことに答えは出てないんだけど、それでも生きてるよ。生きていくというのは先の予測ができなくて難しいけど、そんなに悪くないと思うんだ。見ててね。