reichasm’s blog

なで肩からずり落ちるトート

ドラマ

『カルテット』面白かったです。細かな心理描写がよかったのと、松たか子さんの演技がとても素晴らしかった。『大豆田とわ子と三人の元夫』も最近みて思ったけど、生活が似合う女優さんだなと思った。野菜を切る、ご飯を食べる、道を歩く、人と話す、その一つ一つの動作に品性が感じられて、飽きさせない。大豆田に至っては、松たか子のシーンどこを切り取ってもCMとして成立するじゃんとか思った。(これはカメラワークとかも関係してるのかも、そしてほんとうにパンが似合う似合う)歳を重ねたら松たか子になりたいという女性は多いのではないでしょうか。(僕はオダギリジョーに…)

 

ドラマやら映画を観るとやたらと自分の人生経験とくくりつけてしまう。というか、いろいろ思い出しますね。

太陽

太陽の光って大事だよね、っていう当たり前を今一番大事にしてる。梅雨だからか、なおさら。やっぱり太陽の光を浴びれてない日と比べると、身体の軽さが圧倒的に違う、と思う。1日に30分は浴びよう。性格上因果を探りたいと思ってしまうので、こういう条件下ではこうなった、とか考えるのが好き。朝ご飯抜いて、甘いコーヒーを飲まず、14時まで昼が食べられなかったら、頭痛が発生した時があったとしたら、次その条件が揃った時、再び頭が痛くなると妙に納得してしまう。嫌だから再現しないけど。なので、こういう悪い行動を減らしていくことが健やかな生活につながると思うわけです。

じきに整体とか通いそうだな。

来年の今頃には全ての体調不良は姿勢から来るっつってます。

 

雨止んでくれ〜〜〜〜

髪をカットね

少し短くしてからえらい調子がいい。自分に1番似合うのはこれなんじゃないかってくらい気分がいい。前は憧れてたんですよ、ボーカルの前髪の長さに。でも今はもうこれでいい、ずっとこれでいいという気持ちに。

そういえば4月から新人君が入ってきた。ほんとに優秀な子が入ってきた。俺が新入社員だった頃よりちょうど5倍ね、優秀。仕事覚えるのが早いからとかじゃなくて(いやもちろん早いんだけど)、スタートとゴールを自分で決めようとするところ、質問能力が高いところが素晴らしいと思った。最近はこの子に対して自分に何ができるかなあ、とよく考える。いかんせん真面目な子だもんだから、誰のどんな話もするする入っていく感覚があって、凄い、その反面怖く感じる。こっちが1のつもりで話した事が、100で受け取られることはしばしばあって、会社の先輩後輩だと影響も強いだろうから気を使う。すごく気を使う。変な圧がかかってないかとかはやっぱり顔色見ながらじゃないと分からない、リモートワークって大変だね。とにかく謎の父性が(?)湧いてきたので、とことん教えてあげるから、どんどん活躍していって欲しいと思う。俺も教えられる事の底が尽きないように頑張って行きたい。

 

家族とは

余裕が欲しい。

自分の根っこには昔からこれがある。

人に接するときの態度が悪い人を見ると、余裕がないんだなと思う。職場、駅のホーム、近所のスーパー、至る所に余裕のない人はいる。自分はこうはなりたくないという気持ちが強い。なぜ余裕が欲しいかと言うと、自分の性格をいいと思っていないからだ。余裕がなくなった時の自分の立ち振る舞いに自信がない。大切な人が傷ついてないか気になる。だからこそ、自分を常に余裕を持った状態にしておいて、ゆっくり考えられる自分でいたい。と言っても、未熟な自分なので、これまで多くのミスを繰り返してきた。悔しいことは多いし、尽きない。

余裕というと、ざっくり二つ、経済的と精神的があると思う。この二つがあれば人に対して寛容でいられそうだ。でも、今の社会がそういうムードかって言うと、そうは言えない気がする。経済は悪くなっていくだろうし、慣れない生活様式で、自分のことだけで精一杯な人が増えている気がする。仕方ないけど、まさしく余裕がない状態だ。今後も混乱が続きそうだ。幸いな事に、今のところ「自分」や「自分の周り」は比較的安定している。では、今するべき次の一手ってなんだろうというのが最近のテーマだ。正直よくわからない。なんとなく資格の勉強してみてはいるが、直接的につながっているかというと微妙だから、考え続けなければならない。仲良くし続けたい人たちがいる限り、少しでも先に進んで準備したい。と、率直に思う。

最近は色々と諦めました。自分の生育環境が原因で芽生えた性格たちについて。『家族病』という本を読んでからそう思うようになった。いわゆる、不完全家族とかそういう話。自分が不完全家族だったかと聞かれると、うーんという感じだが、家族に安心感とか感じていなかったので、そっち寄りではある。でも衣食住困らなかった上に、勉強の場も与えてくれたし、ニュースで見るような凄惨な事なんて微塵もなかったので、何とも思ってない。(まあ、こういう一歩引いてる家族の一員を傍観者と定義されていて、不完全家族の一種らしいですが)

親から虐待を受けた子どもが、いざ自分が親になったとき子どもに虐待してしまうという話はよく聞く。初め聞いた時は全く理解できなかった。なぜ、自分が一番苦しんだであろう事を我が子に…などと思っていたけど、本によるとよくある話みたいだ。専門的なところは省略するけど、これは生育環境が関係していて、良くも悪くも自分が育った家族のパターンは受け継ぐらしい。親の性格や雰囲気とかも受け継ぐのも分かっちゃったから、諦めたんだよ。だから自分はたまに人の気持ちとかを考えずに計算する事がすぐ頭によぎるし、気難しかったりするし、独りよがりだったりもするし、甘えただったりもする。それに冒頭の余裕が欲しいとかそういう話、かれこれ6年近くしているので、人はそうそう変わらんもんだなと。

昔は「家族のイベント事はちゃんとするぞ」とか「仕事と家庭を両立させるぞ」とか思ってたけど、大事なことはそんな事ではない気がした。結局これは「よい家族のための10箇条」があるとしたら、そのうち、自分の家族に足りてなかった2箇条についてしか言ってなくて、8つ分は確かにあったはずだ。その『家族病』の中で、「家族は自分で作るもの」という趣旨が書かれている。この言葉でとても楽になった。確かに生まれ育った環境で染み付いたパターンはあれど、家族を作っていくのは自分であり、パートナーであり、子供なんだと思えた。ちゃんと向き合って家族を作って行きたいと思えた。自分の育った環境を否定も肯定もせず、自分たちで話し合って決めていこうと思えた。ありがたや知識。ありがたや図書館。

 

最初、5月だし(?)ドス黒い感情を吐き出して、デトックスでもするかという気持ちで書き始めたが、なんだかポジティブな感じで終わった(暗くし続けること難しくなったなあ)。根っこの自分は変わらなくても、その葉先をどこに伸ばすかは自由だ。さて寝る。

暦にだまされて薄着で出かけてしまう俺たちへ

寒いです。春だからギリ許せている花粉も寒いとダメです。おとなしくしててください。さっき花粉症の薬をもらいに初診の耳鼻科に行って、今飲んでる薬の名前言ったら、「それめちゃ眠くなるよ、脳にクるからね」との事。耳鼻科各位にはぜひ脳にクるものを出さないでいただきたい。薬変えてもらったーやったーこれで眠くなくなるね。

 

最近は色々なことがどうでも良くなっている。でもそれはネガティブなことではなく、淡々と過ぎていく時間がなんだか心地いい。(薬がキマってたからか!?)昔であれば日々の単調さや余白からくる焦りに襲われていたかもしれない。よかったねえ。

唐突な話だが、今「ある結果(形)がどういう要素で成り立っているのか、その要素を一部変えたときに結果にどう影響するのか」にとても興味がある。ベッドを変えたら、体調は。下着の素材を変えたら、心地よさは。フライパンを変えたら、味は。結果がどう変わっていくのか知るのが楽しい。自由研究感ある。服は「素材、糸の太さ、縦糸の本数、糸の色、織り方、形、サイズ感」様々な要素が組み合わさってできているもんだからとても面白い。その要素の一つさえ違えば、服としての結果が変わる。多分これは物の全てに言えるのだろう。何かが突然湧いて出るなんてことはなくて、何事も要素の集合体なのだ。「安かろう悪かろう」なんて言葉があるが、安いものがいけないわけではなくて、悪いものが悪い。売れやすさが、原価の低さが、情熱のなさが。こういった要素が歪な結果をもたらしているんだろう。目的に対して無駄がないデザインが美しい。(余談だが、醤油刺しの液だれは本当に許せなくて、醤油をかける事しか目的がないにも関わらず、醤油をかけたあとは必ず液だれするという歪なデザインがとても許せない。実験してくれ。)

ますますこういう分野に興味が出てきてしまっている。

いつか徹底的に人間中心に据えたものづくりしてみたいなあ。

ふと

学園もののアニメ観てたら、主人公が部屋でベッドに寝転がるシーンになった。そこには勉強机とマンガか本がたくさん並んだ本棚、ローテーブルがあって、おお、THE・男子高校生〜。と懐かしくなった。

そういえばあの実家の2階にある子供部屋を離れてもうすぐ3年。子供部屋という自分の趣味のものしかない空間に神秘性すら感じてきている。

戻れない時間というのはなんとも美しい。高校時代、帰りにする寄り道が1番楽しかった。自販機かコンビニかコメダかスーパーしかなかったけど、自販機とコンビニとコメダとスーパーと一緒に帰る友だちがいたわけだから最高だよ。

まあ夜中に窓の外から小石を投げてくる近所の可愛い幼馴染はおりませんでしたが…(まじで関係ないが、2階まで届く石のサイズだとまあまあ危ないし、たぶんコツンみたいな可愛い音じゃ済まないよな。じゃあ安全に知らせる方法って何だろうと少し考えたけど、普通にLINEだな。)

そういえば思い出したけど、大学時代、夜中に友達に遊びに誘われて断った時。1時間後くらいに、ガツンガツンと窓に何か当たる音がして、外を見てみたら友達が迎えに来てて、そのまま遊びに連れていかれたことがあった。(車の中にあったスティックのりをぶん投げてたらしい、何であるんだよ)

次の日早いんだけど…とキレつつも、滲み出るあの嬉しいやれやれ感は何物にも変えられない幸せな瞬間だった。そういえば自分も友達がキレながら、やれやれとなっている様子を見るのがとても好きだった。無理して連れられた挙句、ガストでドリンクバーを片手にしゃべるだけみたいな時もたくさんあった。俺たちは俺たちのことが本当に好きだったんだと思う。

根拠のない「大丈夫」が合言葉のちょっと無理するキャンパス外ライフ。

 

【新川大学 ラクティスキャンパス とりあえず集まる学部 何しよう科】

普通

少し前に服のデザイナーさんに「(ストイックさとかに)本当すごいっすね…!」と言ったところ、「いやいや、すごくないよ!みんなと同じだよ!」と言われたことがあった。謙遜でもなく、本当にそう思っている様子で。その時、そう言われちゃ敵わんなぁと思った。せめて次元がちがう話として、手の届かない別世界であって欲しかった。身勝手な話だ。

でも、最近になって意味が少しわかった様な気がする。あの人にとっては普通に服を作っているだけなのだ。なら、他のみんなも普通に仕事したり、普通に生活しているのだ。それと変わらないという意味に捉えられなくもない。

この「普通」という言葉、昔はとても嫌いだった。「〇〇するのが普通でしょ」「〇〇するなんて普通じゃない」みたいな押し付けがましい使われ方が嫌だった。「好きなタイプが普通な人」みたいなのもたまに聞くけど、「イケメンじゃなくても清潔感あって、ちゃんと働いてて、優しくて、家族を大事にして…」ってそれは結構理想の人だろ。と思ってる。こんな風に「普通」というのは自分の理想だったりするんじゃないかな。

今はこの「普通」という言葉とても好きになっている。自分にとって納得のいく事や物。居心地の良さ。そんなものに対して「普通」を使っている様な気がする。

自分の中の普通を突き詰めたくなった。

もし起業するなら、株式会社NORMALという社名にする。

いつの日か、その「普通」を良いと言ってくれる人が現れたらラッキーだな。