reichasm’s blog

なで肩からずり落ちるトート

家族とは

余裕が欲しい。

自分の根っこには昔からこれがある。

人に接するときの態度が悪い人を見ると、余裕がないんだなと思う。職場、駅のホーム、近所のスーパー、至る所に余裕のない人はいる。自分はこうはなりたくないという気持ちが強い。なぜ余裕が欲しいかと言うと、自分の性格をいいと思っていないからだ。余裕がなくなった時の自分の立ち振る舞いに自信がない。大切な人が傷ついてないか気になる。だからこそ、自分を常に余裕を持った状態にしておいて、ゆっくり考えられる自分でいたい。と言っても、未熟な自分なので、これまで多くのミスを繰り返してきた。悔しいことは多いし、尽きない。

余裕というと、ざっくり二つ、経済的と精神的があると思う。この二つがあれば人に対して寛容でいられそうだ。でも、今の社会がそういうムードかって言うと、そうは言えない気がする。経済は悪くなっていくだろうし、慣れない生活様式で、自分のことだけで精一杯な人が増えている気がする。仕方ないけど、まさしく余裕がない状態だ。今後も混乱が続きそうだ。幸いな事に、今のところ「自分」や「自分の周り」は比較的安定している。では、今するべき次の一手ってなんだろうというのが最近のテーマだ。正直よくわからない。なんとなく資格の勉強してみてはいるが、直接的につながっているかというと微妙だから、考え続けなければならない。仲良くし続けたい人たちがいる限り、少しでも先に進んで準備したい。と、率直に思う。

最近は色々と諦めました。自分の生育環境が原因で芽生えた性格たちについて。『家族病』という本を読んでからそう思うようになった。いわゆる、不完全家族とかそういう話。自分が不完全家族だったかと聞かれると、うーんという感じだが、家族に安心感とか感じていなかったので、そっち寄りではある。でも衣食住困らなかった上に、勉強の場も与えてくれたし、ニュースで見るような凄惨な事なんて微塵もなかったので、何とも思ってない。(まあ、こういう一歩引いてる家族の一員を傍観者と定義されていて、不完全家族の一種らしいですが)

親から虐待を受けた子どもが、いざ自分が親になったとき子どもに虐待してしまうという話はよく聞く。初め聞いた時は全く理解できなかった。なぜ、自分が一番苦しんだであろう事を我が子に…などと思っていたけど、本によるとよくある話みたいだ。専門的なところは省略するけど、これは生育環境が関係していて、良くも悪くも自分が育った家族のパターンは受け継ぐらしい。親の性格や雰囲気とかも受け継ぐのも分かっちゃったから、諦めたんだよ。だから自分はたまに人の気持ちとかを考えずに計算する事がすぐ頭によぎるし、気難しかったりするし、独りよがりだったりもするし、甘えただったりもする。それに冒頭の余裕が欲しいとかそういう話、かれこれ6年近くしているので、人はそうそう変わらんもんだなと。

昔は「家族のイベント事はちゃんとするぞ」とか「仕事と家庭を両立させるぞ」とか思ってたけど、大事なことはそんな事ではない気がした。結局これは「よい家族のための10箇条」があるとしたら、そのうち、自分の家族に足りてなかった2箇条についてしか言ってなくて、8つ分は確かにあったはずだ。その『家族病』の中で、「家族は自分で作るもの」という趣旨が書かれている。この言葉でとても楽になった。確かに生まれ育った環境で染み付いたパターンはあれど、家族を作っていくのは自分であり、パートナーであり、子供なんだと思えた。ちゃんと向き合って家族を作って行きたいと思えた。自分の育った環境を否定も肯定もせず、自分たちで話し合って決めていこうと思えた。ありがたや知識。ありがたや図書館。

 

最初、5月だし(?)ドス黒い感情を吐き出して、デトックスでもするかという気持ちで書き始めたが、なんだかポジティブな感じで終わった(暗くし続けること難しくなったなあ)。根っこの自分は変わらなくても、その葉先をどこに伸ばすかは自由だ。さて寝る。