映画
『わたしたちに許された特別な時間の終わり』
予告 https://youtu.be/UFRPmItit3w
「ミュージシャンが自殺」
「27歳での他界」
そんな聞き覚えのあるあらすじだけど、リアル過ぎて、360度まわって、身に覚えのある感覚になってしまう、そんなドキュメンタリー
内容は観ればいいし、レビューは監督インタビュー等々で色々見られるので、省略。得意じゃ無いし。
自殺を真っ向から表現…というかすごく感じ取れた。
やはり他人事には思えないのだ。
「自殺」という言葉が現れると、そこからスーッと何かが引いてく感じがする。
そこにいた人達なのか自分の血の気なのか分からないけど。
センシティブだよね。「自殺」という言葉の次に来る言葉に悩み続けるのが生きている人の宿命です。
そもそも自殺って何がいけないんだろうか。
自分にはその勇気もなければ、思ったこともないので改めて考えたい。(なんとなーくぼんやり思ったことはあるんだろうが、たぶんこれはファッションじみた、もしくは中2病の類だろう)
自分を殺すと書くくらいだから、まあ殺人はいかんよね。なんで殺人がいけないかというと、①相手の今後を奪う②その周囲の人を悲しませるからなんだろうけど、この場合の「相手」は自分なわけだから、①については考えないとすると、②「周囲の人を悲しませるから」だけが残る。うーん。
自殺しそうな人に対して「周囲の人を悲しませるから、いけないだろ!」と言いながら、自分は止めに入っていけるだろうか。ラスボスを前に構えた木刀くらい頼りない。
何より当人が悲しかったり、不安だったりしてるわけだから。
他を優先しろとこれ以上責めていいのか。分からない。
少し前までは「生きて欲しい」と伝える事しかできないと思っていたけど、それすらも疑問に思うようになってしまった。
その願いすらその人への否定になってしまうんじゃないかと思ってしまう。かと言って肯定して死んでいく様を見過ごす事もできそうにない。これは八方塞がりだ。
当人もそんな気持ちなのかもしれない。ごくごく簡単な言葉にしてしまえば、理想と現実のギャップ。主観と客観。自と他。混ざり合う事のないものが内在していることのしんどさはほんの少し分かった気がした。
ところで「他人に迷惑をかけてはいけない」「嘘をついてはいけない」「責任を取るべき」などなど言説だけが巡り巡ってる。この言葉たちは受け取り側の網の目の細かさによって、重荷になる度がちがう。
言葉の投げかけには信頼が必要だ。
ただ、信頼の源である受容と共感、そのバランスがわからない。
過去からの傷を癒す接し方と未来を拓く接し方、少なくとも両方必要な気がするが、切替のタイミングが遅いと手遅れになってしまったり、相手を苦しめる。早過ぎたら早過ぎたで、前と言ってた事が違う、人が変わった、掌返しみたいに言われて信頼を失ってしまう。自分の言葉を尽くしてないからなのか。これ本当に難しい。
逸れてしまったな。
過去の傷を癒しながら、未来を目指して、今寄り添い合えたらいいですね。
欠席裁判は祝日だろうが執り行われる。
愛されてようが愛されてなかろうが、死ぬやつは死ぬ。人生は本人の納得感でしかないのかもしれない。頑固なあなたを騙せるくらい賢かったらよかったが、お生憎様。